GQuuuuuuXという作品に期待していたからこその落胆があったという話
- ジークアクスという作品を毎週楽しみに配信から見ていた
- 初代ガンダムが好き、だからこそそれにリンクした作品ということで期待もしたし劇場にも見に行った
- 最終回までテーマや作品に込めたメッセージを読み取ろうとしたがどうしても受け取れられなかった
- なにが気に食わなかったのかまとめたのでここに残しておこうと思う
個人的なレビュー
テーマの野心と現実のギャップ
「宇宙って、自由ですか」というキャッチコピーが象徴するように、本作は「自由」というテーマを中核に据えた作品である。少年少女たちが感じる束縛からの解放、そして制作陣によるアニメ創作における自由の行使がどこまで許されるのかという、メタ的な問いかけも含んだ意欲的なテーマ設定だった。 確かに表面的には、このテーマは成功を収めているように見える。物語の終幕では、ヒロインや主要人物たちがそれまでの束縛から解放され、自由を謳歌する大団円が描かれた。制作面においても、過去のガンダム作品からのオマージュや引用を存分に織り込み、SNS上では毎週のように考察やファンアートが投稿される祭典のような盛り上がりを見せた。この点では、テーマに沿った練り込まれた作品として評価できる側面もある。
致命的な視点の欠落
しかし、本作の根本的な問題は、自由に対する認識の浅さにある。権力を振るう立場や社会の一員となった際、自由とは勝ち取るものであり、絶え間ない努力によって維持されるものだということは、現実を生きる誰もが知る真理である。 ところがそういった描写は、主人公マチュの両親、最終話のアルテイシア、エグザベに諭されてニュータイプの保護を貫こうとするシャリアなど、ごく一部の大人たちに限られている。一方で、自由を享受するだけ、搾取するだけの身勝手な人間たちが続々と登場し、自由を維持する責任を一部の大人・権力者に丸投げする構図が繰り返される。
希望の描き方への失望
自由の享受と獲得については、確かに複数の答えが存在するだろう。今回のような結末も一つの回答として成立するかもしれない。しかし、昨今の社会情勢が示すように、自由を維持する努力を怠る人々が増大すれば、社会は緩やかに崩壊へと向かうことは明らかだ。 もしアニメとしてまたフィクションとして明るい希望を提示するなら、主人公である高校生たちが自由の獲得や維持の重要性に気づき、それを次世代に継承していく姿を描くべきだった。この視点の欠如は、作品として大変残念な欠陥である。
先達との比較
本作がオマージュを捧げる『機動戦士ガンダム』1stシリーズは、限られた作り手たちのリソースの中で戦争と愛という相反するテーマに苦闘し、作品の打ち切りという悲劇に見舞われながらも、正解のない愛のあり方について各々の信念を貫いた傑作だった。 それと比較すると、『ジークアクス』は刹那的な娯楽としての側面が強く、「自由」というテーマへの掘り下げが浅薄に感じられる。10年後、私は間違いなく1stガンダムを見返したいと思うだろうが、本作については同じことは言えないというのが正直な感想である。
参考リンク
初代の絵コンテの話だったり、初代から続くニュータイプ論だったりはこの方の解説を参考にしている部分もあります。バックグラウンドとしてこちらに掲載させていただきます。